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くみあいニュース

1999年度第17号
2000年1月14日


島根大学教職員組合広報部
内線2198
ダイアルイン32-6407
E-mail:union-s@sula0007.soc.shimane-u.ac.jp
WWW:http://sula0043.soc.shimane-u.ac.jp/kumiai/kumiai.html


■第3回くみあいフォーラムを開催します

 明けましておめでとうございます。新年最初の企画として、くみあいフォーラムを下記のごとく開催します。皆様奮って御参加ください。

『大学における日の丸・君が代を考える』

       日 時:2000年1月21日(金) 18:00〜20:00
       会 場:教育学部・第1会議室
       報告者:小林久高・竹永三男・中村新一郎・渡邊久丸(五十音順、敬称略)


■大学と日の丸――私の意見・・今後もなおオープンな議論を

 昨年10月23日の開学50周年記念式典において日の丸が掲揚されました。先にこのニュースでもお伝えしましたように、組合では、
  1. 「日の丸」そのものへの反対を表明するものではなく、多様な意見が存在することを踏まえ、また学問・思想の自由の侵害を危惧し、日の丸の「掲揚」に反対すること
  2. 学内の十分な議論を通じて、自主的・自律的に、民主的合意形成を行うよう要望すること(これは、大学運営のあり方そのものに関わる事柄であるという観点からも)
という趣旨から、学長に対して、反対の要望書を提出しました(1999年10月15日)。
 今後もなお、この問題を様々な角度から考え、オープンな議論を行うことが重要ではないでしょうか。そのための手掛かりとすべく、本ニュースでは、「大学と『日の丸』――私の意見」と題して、以下の5名の方から御意見を寄せていただきました。

□もし前言をひるがえさなかったら

附属図書館 野津千恵子

 今回,学長が前言をひるがえしたというのが非難のひとつとなっているようです。私の家庭でも,「前にはこういったでしょ!」と私は亭主を問いつめ,子供からは「お母さんは前に言ったことと違う!」と糾弾されたりします。前言をひるがえさないのは一本芯がとおっているとか,かっこいいとかいえる反面,頭が固いとか意固地だとか融通がきかないともいえます。
 もし誰も前言を全くひるがえさないなら会議等では議論は平行線,結論などなかなか期待できないでしょう。いや、組合が言っているのは、「大学の自主・自立」については前言をひるがえしてはいけないのだということなら、大学の自主・自立に関することとその他のことの区別が必要です。私は「大学の自治」というものがあれば、事務職員はそれに入っていないと思っています。
 開学50周年記念行事が1つの仕事であれば,仕事には期限が必ずあります。再度の先生方の民主的な学内議論の集約には時間が必要でしょう。今回,前言をひるがえさず,国旗を掲揚しないで記念式典を行ったら,その先には何があるのでしょうか。その先に起きることの責任は誰がとるのでしょうか。ほかの国立大学は島大に続けと援護してくれるのでしょうか,それとも島大のようになっては困ると自己規制を強くするのでしょうか。
 今回前言をひるがえしても、ひるがえさなくても学内には必ず批判があったことでしょう。このことに限らず「外部圧力に屈する」ほうが自己規制よりいいと思っています。    

□国旗掲揚の強制に対する私の意見

生物資源科学部 一組合員

 開学50周年式典での日の丸掲揚に関する新聞報道にはびっくりさせられた。「日の丸・君が代」の法制化以降、この問題に対する関心が非常に高いことがうかがえる。
 問題はいろいろあると思うが、私が一番おかしいと思うのは、10月6日の臨時部局長会議で掲揚しないことを決定した後の、文部省の圧力である。組合が学長に提出した「要望書」にもふれてある通り、国旗・国歌法案可決の際政府は「教育現場での実施は各々の自由である」旨の発言をしていたにもかかわらず、またも権力によって学問・思想の自由を侵害している。
 「出る杭は打たれる」――力によって統制しようという日本の一番悪い面を、ここでも目の当たりにしたような気がした。
 その圧力に屈服するかたちとなった学長の決定は、時間的に余裕がなかったとは言え軽率だったと思う。今後は学内でしっかり論議した上で結論を出して頂きたい。

□新制大学に『日の丸』はそぐわない

法文支部 竹永三男

 「日の丸・君が代」の法制化後の動きの中で、私が最も心配するのは、予想されていたことですが、「日の丸・君が代」を尊重しない者は「非国民」であるというような行政当局者の発言です。この一事からも知られる問題の多い「日の丸・君が代」ですが、先月挙行された「開学50周年記念式典」に「日の丸」が掲げられたことに関連して、私は、もう一つの批判的意見をもっています。それは、島根大学もその一つである新制大学は、そもそも「日の丸」を掲げるべきできない、という理由からです。
 第一に、戦後新制大学の発足=島根大学の創設は「学校教育法」に基づきますが、同法は、「教育基本法」とともに公布されました。そして、その「教育基本法」は、先の戦争とに深く関わった戦前の教育に対する厳しい反省の中で、「日本国憲法の精神に則り」制定されたものです。そうであれば、大学に(小・中・高校も)「日の丸・君が代」が相応しいか否か、「日本国憲法」と「教育基本法」に立ち返って考えねばならないでしょう。
 第二に、「学校教育法」はまた、戦前の学校制度を規定した教育関係の勅令(天皇の命令)を廃止を規定しましたが、これらの勅令には、「国民道徳の充実」(「高等学校令」)、「国家思想の涵養」「国家に須要なる学術の理論及応用を教授」(「大学令」)といった国家主義的教育理念がうたわれていました。それらが廃止されたということは、新制大学がこうした国家主義的教育理念との訣別から出発したことを示しているわけです。
 以上のことに照らしても、私は、自由を重んじ真理を追究する大学(小・中・高校も)は、「日の丸」=国家を背負ってはならないと考えるのです。
 大学行事で従来にない内容を新たに行うとき、とくにそれが「日の丸・君が代」のように見解が大きく分かれるような場合には、その要否と当否が十分に議論され検討されることが不可欠です。今回の経過を苦い反省材料として、全ての構成員による慎重かつ十分な検討を切に望みます。学内で意見の分れる「日の丸」は、「掲揚」でも「拒否」でもなく、当面「保留」、卒業式・入学式は従来どおり、とすることが至当だと、私は考えます。

□なぜ、「日の丸・君が代」の掲揚・斉唱の強制に反対するのか

法文学部 渡邊久丸

反対の理由を簡潔に述べてみよう。
1.一言でいえば、法律で「日の丸・君が代」を国旗・国歌として定めたからだ。法律でなら、何でも決められるというものではない。そもそも「日の丸・君が代」は法律であれ「国旗・国歌」にはされてはならない。日本が、戦前アジアで行ってきた侵略戦争で、いわば「侵略のシンボル」として決定的な負の歴史的役割を果たしてきたからである。
 この戦前の侵略戦争の歴史的反省の上に立って平和で民主的な日本の建設をめざして制定されたのが、戦後憲法である。戦前に国旗・国歌扱いされ、天皇制ファシズムのシンボルであった「日の丸・君が代」を、改めて法制化し採用することなどできるのだろうか。憲法の制定と同時に廃止され復活されてはならないものとみるべきだろう。ちなみに、ドイツでは、戦前に国旗とされた「ナチ旗」を戦後、廃止し、民主的なワイマール時代の三色旗を再び国旗として採用した。いまもなお続くナチスの犯罪への徹底追及も、この非ナチ化・非軍国主義化の姿勢の現れであろう。
2.日の丸・君が代の掲揚・斉唱を強制(祝意を強制)することに反対するのは、これを国旗・国歌と法制化しても、これを掲揚し、これを歌うかは、全く各個人の内心(思想・良心)の自由に属する事柄だからである。これは、アメリカをはじめ各国で認められている世界の常識である。
 いうまでもなく、内心の自由は、諸人権の中で核をなす根幹的人権である。だから、「強制」の問題は権力による直接・明示的な強制だけでなく、間接・黙示的なものをも含めて広く「強制」ととらえられなければならない。
 大学などへの権力による「強制」問題と同時に懸念されるのは、市民生活・地域レベルでの社会心理的強制の問題である。国旗・国歌法は、少なくとも掲揚しない人を「非国民」扱いする風潮を醸成している。国旗を掲揚せず国歌を歌わないものは、“日本人ではない”、“お前の考えは、誤っている”などの大合唱が席巻し、思想弾圧が荒れ狂ったのは、戦前の天皇制ファシズム社会ではなかったのか。「いつか来た道」を、二度と歩んではならない。

□大学自治と国旗掲揚についての私の考え

法文学部 小林 久高

 開学50周年記念式典において、日の丸を掲揚することが決定されたと聞いたときには、大学が政府や市場の圧力に翻弄されているという実感がまた一段と強まった。「国立大学は国の機関だから国旗である日の丸の掲揚は当然だ」「国立大学にも市場原理の導入を」そんなことを言う人がたくさんいる。しかし本当にそれでいいのだろうか。
 大学は広い意味での公共的な知識を生産して広く社会に提供する組織だと私は思う。その際、重要になるのは、その知識が何らかの圧力のもとに生産されてはいけないということだ。というのは、市場の圧力(儲かるかどうか)や時の政府の圧力の下で研究がなされるならば、その知識は歪められてしまうかもしれないからだ。時には政府の間違いも正し、時には人々に警鐘を与える、そんな機関が社会には必要であり、その1つが大学だ。だから大学は独立している必要がある。自治はそのための制度的基盤だ。大学が独立しているのは何も我々大学人の特権ではなく、社会から大学に与えられた義務なのだ。こう考えるとき、今回の意思決定はとても残念なものだ。大学人は、大学自治を堅持することを自身に与えられた責務と考え、それに対する圧力に対しては毅然とした態度をとらなければならないと思う。
 意思決定を離れても私は日の丸掲揚に反対だが、それも上のことと関連している。日の丸は国家や政府の象徴かもしれないし別のものの象徴かもしれない。しかし、いずれにせよ、それが何らかの権威を象徴していることには間違いがない。一方、大学は、政府や市場の権威から独立していなければならない。また、大学は人びとの熱狂からも独立している必要がある。ありとあらゆる権威やドグマから独立して自己の責任において重要な真理を探究するというのが大学の立場だ。これら2つのことを考えるとき、大学において日の丸の掲揚するということは、大学自身が自らの立場について深く考えていないことの証に見えてならない。政府の他の機関に日の丸を揚げることと大学に日の丸を揚げることはまったく意味が違うのだ。
 最近では、公的セクターと民間セクターに対して市民セクター(NGOなど)の社会的役割の重要性が指摘されている。そのような中、私は国立大学をいわば政府出資の市民セクターとしてとらえる必要があるのではと考えている。
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