島根大学教職員組合の結成にかかわって

法文学部 杉元邦太郎

   結 成 式

 島根大学教職員組合の結成大会は、1972(昭和47)年6月10日に教養101番教室で開催された。出席代議員54人、午後1時30分から4時20分までの3時間にわたる熱気があふれた大会であった。
 議長には法文学部池田(善昭)教官と小川事務官(以後敬称略)が選出され、経過報告、組合結成宣言、来賓祝辞、祝電披露に続いて議事に入り、規約、組合費、中央執行委員の選出など一連の議題が処理された後、初代委員長に大久保哲夫(教育)、書記長に杉元邦太郎(文理学部)が選出されて結成大会を終えた(当日の詳細は後述)。
 基礎組織としての支部は、文理学部(のち法文学部支部、理学部支部に)、教育学部、農学部、事務局(図書館を含む。なお事務局はいわゆる“本部”であるが、筆者は大学には本部・学部の序列はないとの思いから、現在まで本部の呼称は使っていない。今事務局棟の玄関看板は“事務局”である)。
 

   組 合 前 史

 72年の組合結成を、当時は組合全学化と呼んでいた。それは当時すでに文理・教育の両組合ができており、それを一本化した上で、さらに農学部と、事務局の各教職員に加盟を呼びかけたからであった。
 島根大学でもっとも古い歴史をもっている組合は、島根大学教育学部教職員組合で、1950年に結成されたという。文理学部にもそのころ組合があったということであるが、まもなく解散したらしい(筆者の島根大学着任以前で詳細はわからない)。
 教育学部では、学部長、事務長を除く全教職員が組合員になることになっていて、その組織率は百%に近いものであった。そのためもあって、学部としては特別昇給や官舎配分の委員会には組合代表も参加していて、組合の提案による基準での配分が行われるなどの民主化が進んでいた。県教組とも早くから連携し、県教研には講師団(のち島大組合が派遣に協力。呼称も助言者団に)として出席していた。また、附属学校の特殊性(たとえば勤務時間の問題や県教員との交流、国県との待遇格差など)もあって、いくつかの問題解決に独自で取り組んでいた。
 文理学部では、当時教育学部や県教組とつき合いの深かった内藤正中が、筆者ら若手教官に働きかけられて、島根大学文理学部教職員組合が1968(昭和43)年に結成された。当時は組合ボックスなど無く、幸い実験講座ということで資料室をもっていた杉元の研究室が組合の部屋で、バイトの女性(伯太町の妹尾さん)が事務を執っていた。文理組合は先輩格の教育組合と連携し、その影で日教組大学部(今、全大教)に組合員数を登録(もちろん数人分)し、島根県公務員共闘などにも加盟していた。また大学当局との交渉(当時は人事院勧告の完全実施や宿日直問題、更衣室の確保、定員外職員問題など)も行っていた。
 農学部は、1965年から年次進行の形で県立島根農科大学からの移管が行われてきた。従って島大移管以前には島根県職員労働組合の下部組織として「農大分会」が53年に組織されたという。教職員の親睦交流(職員は県の人事で動くので、交流は大事であった)を深める一方、六十年安保闘争では市中デモも行ったという(−当時の武内哲夫氏の談―筆者の記憶)。組合新聞の全学化準備号(72・6・1付)には、現(前?)学長の北川泉が農大移管にともなう組合の取り組みについて寄稿している。
 事務局は、文理・教育学部の時代には学部事務が中心で、全学統合的な機能は弱く、互助会的(今もある)なものはあったようであるが、組合を作るまでにはなっていなかった。 やがて農学部が移管されてくる中で事務局機能も整備されてきた。

   なぜ全学化だったのか

 1973年から全国の各大学で巻き起こされた大学紛争は、島根大学にも火の粉が舞い降り、74年には事務局棟と法文棟の封鎖となった。そのために事務局は学長室ごと田町の職員会館(以前女子寮だった。封鎖解除後改装して職員会館となった)に移り、法文学部は根無し草で、普段は自宅待機、教授会等は床几山荘(当時は国民宿舎、以前はNHK松江放送局、今は松徳幼稚園)や松江レークガーデン(宿泊施設併設のレジャー施設=今ホテル一畑の駐車場になっている)などで開かれていた。当時は県民会館などの会議施設はほとんど無かった。
 また東京教育大学の筑波新大学への移行が決定されたのもこの年77年5月である。もちろん新大学構想はその数年前から議論が始まっており、このことが大学人の大きな関心事、課題、問題点として突きつけられていた。これは前年の6月に中教審が答申を出したものに応える新構想大学で、学部の壁を取り払う、研究と教育を分離する、総合科学部方式を採用する、といった内容であった。またこの答申では任期制の導入や、第三者評価による給与格付け、理事会の導入など、今になって実現化が図られようとしている提案もなされていた。
 全国的な諸要求としては、上記の諸問題の他にも人事院勧告の完全実施、勤勉手当差別支給の撤廃、定員外職員の処遇の問題など課題は山積し、それらへの対処も部分的な運動では限界があることがはっきりしてきていた。
 学内ではすでに述べたように、全国課題に対して島根大学の側から共に声を挙げていくことの必要があり、一方学内課題としては、前史でも述べたように、事務局の権限がようやく確立・強化されはじめており、定員外職員の定員化や宿日直の廃止、勤勉手当の一律支給、独身寮の建設や休憩室、更衣室の設置等、対大学当局に対しての諸要求は単独学部での声では大きな力にはなりにくく、かつ解決も困難ということがはっきりしてきた。
 さらに問題となったのが、当時組合があったのが法文・教育の両学部だけであり、問題は山積しているのに、農学部(国立移管にともない教授全員の管理職指定が教授会で決議され、組合加入や組合運動に制限がかけられた。このため農大支部からの移行も行えなかった)と事務局の教職員の諸要求や、全学的な交流ができない状態にあった。
 そこで以前から文理・教育の組合間で話題に出ていた、農学部や事務局、図書館にも組合をつくってはどうかという話が、71年になって急に具体化の方向に動きだした。その中で大きな問題は、その組織形態をどうするかということで、農学部や事務局にも組合を作り、その連合体を全学でつくってはどうかということが話題になった。しかし未組織の中に組合を新たに作ることの困難さより(事務局ではすでに権限強化が進んでいて、組合敵視がでてきていた)、同じ精力を全学一本の組合づくりに注ぎ、農学部では助教授以下の人を中心に、事務局ではとくに問題の多い図書館の人を中心に、そして職員の人たちの中で組合運動に理解してくれる人を可能な限り多数結集しようということになった。 この全学一本化は結果的に成功した。諸要求を大学・文部省・人事院に直接一つの意思として突きつけることができるわけであり、学部問題は支部の活動として独自の取り組みも可能である。何よりも大きい成果は、全学の教職員が一つの組織の中で共通する話題・課題をぶつけ合い、そして一転して、楽しい交流ができるようになった。
 大学ではともすると教員と事務職員が、その置かれている環境や仕事の性質上対立しがちである。教員はまだ教授会で意思の表明が行え得るが、事務職員は事務局長(文部省)以下の系列の中で否応なしの仕事が待っている。しかも教員は事務の仕事に冷淡だし、事務職員は教員の研究・教育の中身が理解しにくい。そこではどうしても対立が起こりやすくなってきている。全学一本の単一組合は、そのような対立課題の中から、課題解決の方向・方策を共に探っていくという共同作業(克服と発展)を容易に行いうる場であるし、その中から「国民のための大学づくり」という共同スローガン(日教組大学部)に象徴される明るく働きやすい職場づくりが可能となるのである。

   創立大会の議論から

 組合結成宣言の朗読:喜多村望(教育)。来賓:県教組および松江高専(すでに組合があった)。祝電披露:石野真(教育)。選挙管理委員会(事務:藤原益富、落合輝満、細木憲治、児島多美夫、教員:松井保、小野寺郁夫、猪俣趣、仙田久仁男。すでに鬼籍に入った方がお二人おられますが、島大現職の方も多い)。中央執行委員会:委員長大久保哲夫、副委員長江角良美、書記長杉元邦太郎、書記次長稲葉久仁雄、筆者を含め、いずれも停年で大学を去ってしまった。中央執行委員(島大現職の方のみ):石野真、平野博文、川本謙一、渡部晴基ほか4名。
 島大教職組の特徴。人事院の登録団体であること。国家公務員である島根大学の教職員は、組合をつくり、交渉を行うことはできるが、ストなどの争議行動を行うことはできない。その“できること”を正当に認定する役所が人事院である。人事院に登録した組合は、各種の交渉を正当な理由なく拒否することはできないことになっている。組合結成以来30年近い年月がたつ中で、学内外で、また各学部で、かなりの環境の改善が行われてきた。 また、賃金や特昇、勤勉手当や宿舎の公平な配分など、組合抜きには手にすることはできなかったものである。しかもそのためには人事院の認知が必要であったのである。
 未組合員(非組合員ではない)の人は、組合がなくても賃金体系ができているのだから自然に給料はあがるとか、文部省や人事院が適当に決めてくれているのだとか、言う。しかしそうではないことは組合に所属している人なら知っている。毎年の給与の引き上げにあたって、組合が毎年の実態調査を基に、人事院とどれだけねばり強い交渉を行ってきたか。教育・研究・職場の環境改善のために、何十回となく文部省との交渉を行ってきたこと。そして大学部(全大教)内の組織間交流や各種研究集会で、多くの先例の学習や交流を行ってきたことなどを。組合活動の成果は、組合員・未組合員の別なく、その余慶を受けているのである。
 もう一つの特徴、結成当時から定員外職員を組合員としてきたこと。当時大学は発展途上にあり、かつ事務組織も拡大してきていた。一方で定員抑制から定員削減が出始めてきており、その中で研究室という職場では事務的な職員の確保はどうしても必要であった。否応なく研究費を削って定員外職員を採用せざるを得なかったのである。仕事は一般職員と全く変わりはない。そこで定員外職員も立派な島根大学職員であるということになり、組合に迎え入れることになった。定員外職員の給与の頭打ち解消。交通費の支給。数年での肩叩きはやめさせるなど、島大組合の運動は全国の先進事例に学びながら、大きく前進してきた。その中で女性の昇格差別問題も明らかになり、婦人部(現レディース)の活動もあって、女性の主任昇格(未組合の人でしたが)や、その後の係長実現に結びついてきた。
 他団体との提携。日教組および同大学部(今、全大教)はだれも不自然なこととは感じなかった。また中国地区大学教組(中ブロ)も同様で、島根大学もここを利用して中国人事院との交渉に参加してきたし、中ブロ教研で交流を重ねてきた。島根県公務員共闘会議や県評(今は消滅)への加盟も誰一人反対するものはいなかった。

   杉元、大学部の執行委員に

 研究室の荷物を、片づけていると古いノートが出てきた。第1ページには74年9月23日、於京都山崎・宝積寺「第1回大学部労働学校」とある。杉元が当時の日教組組大学部の執行委員になった最初のページである。72年に島大組合が全学化してそれなりに順調な滑り出しをしはじめてきた73年を経過し、74年の夏前に、当時の法文学部の松尾寿から大学部の執行委員に出てくれと依頼を受けた。何で杉元が,といろいろ議論をしたが、狙いを付けて依頼してきているのはわかっているし、家庭に負担を掛けることになるのも心の重荷になったが、経過と性格上、議論して逃げ回ることができない人間として、結局引き受けることになった。
 その第1回の執行委員会を兼ねて、当時の大学の情勢とその中での組合運動、当面の取り組みなどを学ばせられたのが上記の労働学校であった。書記の宅和さんと一緒に参加した。執行委員会内での任務分担は“教文部”に指名された。大学部も、このときから日教組の「大学“分会”」的位置から、「大学部」として独立し、運動方針、予算、執行部人事を独立して執行(以前は日教組の方針に従っていた)できるようになった出発点だったのである。
 ノートを見ていくと、当時すでに労働組合運動の曲がり角にたっていて、ストライキ万能主義からの転換の動きが始まっていたことがわかる(「国民のための大学づくり」・「手づくりの組合運動」が始まった)。すなわち日教組の方針とはすでにかけ違いが起こっていたようである。しかしその方針はまだ全国的には浸透せず、しばらくは人事院勧告を巡ってのストなどが続いた。大学部としての方針転換のオルグに津山高専にいったとき、スト無用論(日教組方針を“批准”しない方向:“各組合の独自方針で”)をストレートに言い過ぎたのか、同校が大学部から離脱したいと言い出して、東京の組織対策部が大慌てになったなどということもあった。
 島根大学でも稲葉委員長(農学部)のもとで、学生会館前の集会、学内デモ、教養棟横の桜の下での討論集会などの半日ストも行った。おかげで当時の島大組合の執行委員らは“ストを煽った”ということで“賃金カット”を喰らった。杉元はといえば、大学部の執行委員ではあっても(隠れ役員)島根大学では無役であったため、何のお咎めもなく難を逃れたという無責任男になってしまった、というお粗末な話もある。
 大学部(3年間)にいた間の最大出来事は島根大学で「日教組大学部 第13回全国婦人集会」の開催組合になったことである。これについての詳細はレディース(婦人部)結成20周年記念誌に詳しいので省略するが、婦人部のない島根大学でどうやったら婦人集会などができるのかと、大騒動かつ綿密な行動、婦人部の前身「女性が共に語る会」(74年にとりあえず青婦部はつくった)の大奮闘、そして男性組合員の大車輪の支援があって13回婦人集会は大成功を納め、執行委員会内での杉元も面目を果たしたというわけであった。これが76年6月の婦人部の創立につながった(青年部は消滅)。引き続いて翌年には大学部の教研集会も島大組合が当番校になって開かれている。
 このときのノートには、婦人集会や教研集会のほかに、青年集会、医大懇などで各地の集会に参加し、また大学危機突破中央集会とか、政党への要請行動など、また中ブロ担当としてブロック内組合訪問などなど、執行委員会以外にしょっちゅう松江を空けていたことがわかる。平均すると月2回以上はどこかに出ていたようである。この時以来今に至るまで、我が家では亭主不在に何の文句も出なくなっている。

   の こ り の こ と

 まだまだあるような気がするが、ここで思い出にふけることは止めにする。
 今大学の教職員組合運動の課題がどこにあるのかは詳しくは知らない。かつて県教研などで小中学校の先生方の“多忙化”が問題になっていた。今、大学がその中に入り込んでしまっている。職員に限らず、教員も。退職者には配られなかったが、“会計マニュアル” を見、また定削と事務機構統合の流れを見ていると、教員が自ら処理しなければならない事務的仕事が増えてきそうである。
 杉元が島根大学に来た当時は、事務組織が未整備であったためもあって、会計の伝票おこし、図書館での図書受け渡しは、教員自らが行っていた。研究室の整理の中でその痕跡書類が出てきて、また“追憶にふけった”ところである。これからはその時代に戻るのかもしれない。
 上に書いたが、教員が、研究室にこもって“研究だ”、“教育だ”といって事務室に負担をかけることはできなくなる。今こそ、大学の研究・教育の中身・在り方(個々人の問題) をこえて、大学での研究・教育の環境づくりのあり方について、議論をしていかなければならないのではないだろうか。それは教員の側の一方的な要求ではなく、また職員の側の無理解でもなく、教員・職員が一体になって「島根大学方式による研究・教育の環境づくり」を開始することである。それができるのは「教職員組合」だけである。
 古い組合活動家の、組合運動の原点をご披露してこの稿を終わる。島根大学教職員組合がますます発展し、住み良い大学になることを願っている。  (1999.3.24)